2016/11/26

ギター / ボブ・ディラン

ノーベル賞 受賞の ボブディラン
Bob Dylan
ボブディラン、ノーベル賞 受賞。すごいことになっちゃったね。日本の全国版新聞にも一面に載ったりしている。
メディアによるとボブディランはロックシンガーだという。
そもそも、楽曲をジャンル分けするのはいい加減なところもあったりするんだけれども、いずれにしてもボブディランはロックであるというのは私にとってはピンとこない。
彼は、吟遊詩人の流れをくむ「歌うたい」であるという感じがする。もちろん吟遊詩人そのものではないが、放浪し、人々の生活の楽しさ苦しさ、そして英雄伝記などを民衆に語る表現者、その現代版だという認識だ。

ノーベル賞は「新しい詩的表現」が評価されたということなので、ミュージシャンとしてではなく、詩の内容が賞の対象なのだろう。
歌手としては歌が上手いわけではないし、ギターだって「弾けますよ」程度。現代音楽の歌手という実力だけをとらまえると、抜きん出た技量があるわけではない。歌唱力のあるピーター・ポール&マリー(PP&M)やジョーン・バエズが「時代は変る」「風に吹かれて」などを取り上げたため、ディランの詩が世に知れ渡ったという背景もあるようだ。

「吟遊詩人」と書いたが、引き継いでいるだけであって、吟遊詩人そのものではない。現代音楽のほとんどは商業音楽で、数分間を切り売りしている商品だ。だからディランは、多くの歌手と同様に組織に組み込まれた一個人であるということも確かだろう。
だから、彼個人だけが凄いことをやっているのではなくて、商業的な組織の中で、そして、その複数の力で「新しい詩的表現」が世間に認知されたということになる。商業的に大成功しているから、スウェーデン・アカデミーの把握する範疇に入ったのだろうね。

もっと広く考えてみよう。
ボブディランだけが吟遊詩人のココロをもつ表現者ではなく、古くは ウッディ・ガスリー や ピート・シーガー が思い浮かぶ。世界的には認知度は極端に低いにしても、岡林信康、中川五郎、高田渡、加川良なども少なからず吟遊詩人のココロを受け継いでいるのだろうと思う。さらには、商業的には認知されていないストリート・ミュージシャンなど「民衆の歌うたい」、つまり本来のフォークシンガーは世界中にゴマンといる。「新しい詩的表現」も同じ数だけゴマンとあるに違いない。ノーベル賞に値するかどうかは別にして「嬉しくて、楽しくて、苦しくて、辛くて、表現したくてしょうがない詩(ことば)」は世の中に溢れているのではないかとも思う。

ボブディランは、エレクトリックギターに持ち替えて活動し始めた頃からロックシンガーと呼ばれるようになったのかもしれない。どんな楽器を使おうと、私にはフォークシンガーとして認識されている。ノーベル賞は、folk singer・・・民衆の唄うたい・・・吟遊詩人としての能力に与えられたのだと思う。

それにしても異質である。
ノーベル賞云々にほとんど知識の無い私が言うのも変だけれど、ボブディランにこの賞は似合わないし、変な方向に行っちゃったねという気がする。だけど、この受賞を素直に受け止めるならば、多くの民衆の歌うたいにも、世界最高峰の賞に値する素晴らしい表現があって、それは無数に存在しているということをあらためて知ることになる。

しかしながら・・・
ダイナマイトを発明したアルフレッド・ノーベル。「どれだけ弾丸が飛び交ったら武器が無くなるんだろう」と歌った若いころのボブディラン。この対比。この食い違いに苦笑いをすることもあり、なんか奥深い意味合い「新しい詩的表現」が生まれるような気がしますな。